スポーツ
安美錦関 笑顔の裏 不屈の精神で務めた土俵人生
「いつ最後になってもいい」、ここ数年、安美錦関は口癖のように繰り返し日々の取組にすべてをかける覚悟で土俵に上がり続けてきました。巧みな技に加えて、目尻を下げた笑顔とユニークな話術で笑わせる人柄は多くの人たちに愛されてきました。その笑顔の裏には、力士人生を脅かす大けがを幾度となく乗り越え、20年以上にわたって土俵生活をつとめ上げた強い精神力がありました。
安美錦関は、おととし(平成29年)11月の九州場所、史上最年長の39歳で返り入幕を果たしました。
じん帯の断裂や半月板の損傷など両ひざのけがに加えて、前の年(平成28年)に負った左アキレスけんの断裂を乗り越えての待望の復活に当時の安美錦は「中年の希望になれればなと思って、頑張ってますよ」と笑顔でインタビューに答えました。その復活の陰には、決して多くは明かさない不断の努力がありました。
「苦しんでいる姿や努力は人に見せるものじゃない」と常々話す関取に少しだけ許された自室の取材では、毎日の稽古前の早朝に自費で購入した器具で、痛めた足を湯で温めたり、足に電気をかけたりしている姿が見られました。
「体の負担を減らすように自分でできることは自分でやってね」と当たり前のように話す様子に土俵にかける人一倍の強い思いがかいま見えました。
この九州場所で千秋楽に勝ち越しを決め敢闘賞を受賞した安美錦は珍しく涙を見せました。支えてくれた医師や関係者、家族への感謝、そして苦しいリハビリなど様々な感情がこみ上げたのです。
この涙の復活劇のあとからよく口にするようになったのが、「いつ最後になってもいい」という言葉です。決して完治することはない両ひざのけがとつきあいながら覚悟を持って土俵に上がり続け、熟練の巧みな技で土俵を沸かせてきました。
通算出場回数が1795回に達し、歴代3位の元関脇 寺尾に並んだことし5月の夏場所では、長く現役を続けてこられた理由について「誰の言葉であっても素直に参考にしようと思っている。報道陣の皆さんでも。謙虚さが大事」と話したあと、「お疲れ様です。前を失礼します」と年下が多くなった報道陣に頭を下げて笑わせました。
相撲に打ち込む姿や取り口に加えて、こうした人柄もファンだけでなく、報道陣や相撲関係者の多くに愛されてきた理由の1つです。
名古屋場所は関取在位が117場所に達し歴代1位に並ぶ節目の場所でした。ところが2日目に安美錦を再び試練が襲いました。新十両の竜虎との対戦で右ひざが崩れるように敗れ、翌日3日目から途中休場。診断書には「右ひざ前十字じん帯断裂」、「内側半月板断裂」、「外側半月板損傷」など、もはや完治が望めない過去のけがを含め、5つのけがが書かれていました。
このひざの状態で土俵に上がり続けて来たことがまさに奇跡とも言える状態だったのです。それでもけがをした3日後には、復帰に向けトレーニングを再開し「出場するためにできることを最大限にやる。元気な姿を見せられれば」ともう1度、土俵に上がる決意を示しました。
しかし、安美錦関の意思に逆らうかのように場所が後半に入るころになってもひざの状態は上向きませんでした。実は安美錦は中日8日目に引退の意向を師匠の伊勢ヶ濱親方に伝えていたということで、引退を明らかにした16日、「初めて出場する以外の選択肢。今後のことを考えて勝負師としては引き時なのかと思った」と語りました。
わずかでも出場の可能性にかけて努力を積み重ねてきた関取も最後は、けがに勝つことができませんでした。
22年余りの土俵人生で積み重ねた出場回数は実に1805回。けがを乗り越えての歴代3位となる偉大な記録となりました。
それでも「もし、わがままが許されるならアミ関の1806回目の取組が見たかった」。安美錦関が笑顔の裏で続けてきた努力を知る多くのファンは、そういう思いを抱いているはずです。
NHK公式ホームページ:http://www.nhk.or.jp
NHK 公式Twitter:@nhk_news
安美錦関は、おととし(平成29年)11月の九州場所、史上最年長の39歳で返り入幕を果たしました。
じん帯の断裂や半月板の損傷など両ひざのけがに加えて、前の年(平成28年)に負った左アキレスけんの断裂を乗り越えての待望の復活に当時の安美錦は「中年の希望になれればなと思って、頑張ってますよ」と笑顔でインタビューに答えました。その復活の陰には、決して多くは明かさない不断の努力がありました。
「苦しんでいる姿や努力は人に見せるものじゃない」と常々話す関取に少しだけ許された自室の取材では、毎日の稽古前の早朝に自費で購入した器具で、痛めた足を湯で温めたり、足に電気をかけたりしている姿が見られました。
「体の負担を減らすように自分でできることは自分でやってね」と当たり前のように話す様子に土俵にかける人一倍の強い思いがかいま見えました。
この九州場所で千秋楽に勝ち越しを決め敢闘賞を受賞した安美錦は珍しく涙を見せました。支えてくれた医師や関係者、家族への感謝、そして苦しいリハビリなど様々な感情がこみ上げたのです。
この涙の復活劇のあとからよく口にするようになったのが、「いつ最後になってもいい」という言葉です。決して完治することはない両ひざのけがとつきあいながら覚悟を持って土俵に上がり続け、熟練の巧みな技で土俵を沸かせてきました。
通算出場回数が1795回に達し、歴代3位の元関脇 寺尾に並んだことし5月の夏場所では、長く現役を続けてこられた理由について「誰の言葉であっても素直に参考にしようと思っている。報道陣の皆さんでも。謙虚さが大事」と話したあと、「お疲れ様です。前を失礼します」と年下が多くなった報道陣に頭を下げて笑わせました。
相撲に打ち込む姿や取り口に加えて、こうした人柄もファンだけでなく、報道陣や相撲関係者の多くに愛されてきた理由の1つです。
名古屋場所は関取在位が117場所に達し歴代1位に並ぶ節目の場所でした。ところが2日目に安美錦を再び試練が襲いました。新十両の竜虎との対戦で右ひざが崩れるように敗れ、翌日3日目から途中休場。診断書には「右ひざ前十字じん帯断裂」、「内側半月板断裂」、「外側半月板損傷」など、もはや完治が望めない過去のけがを含め、5つのけがが書かれていました。
このひざの状態で土俵に上がり続けて来たことがまさに奇跡とも言える状態だったのです。それでもけがをした3日後には、復帰に向けトレーニングを再開し「出場するためにできることを最大限にやる。元気な姿を見せられれば」ともう1度、土俵に上がる決意を示しました。
しかし、安美錦関の意思に逆らうかのように場所が後半に入るころになってもひざの状態は上向きませんでした。実は安美錦は中日8日目に引退の意向を師匠の伊勢ヶ濱親方に伝えていたということで、引退を明らかにした16日、「初めて出場する以外の選択肢。今後のことを考えて勝負師としては引き時なのかと思った」と語りました。
わずかでも出場の可能性にかけて努力を積み重ねてきた関取も最後は、けがに勝つことができませんでした。
22年余りの土俵人生で積み重ねた出場回数は実に1805回。けがを乗り越えての歴代3位となる偉大な記録となりました。
それでも「もし、わがままが許されるならアミ関の1806回目の取組が見たかった」。安美錦関が笑顔の裏で続けてきた努力を知る多くのファンは、そういう思いを抱いているはずです。
NHK公式ホームページ:http://www.nhk.or.jp
NHK 公式Twitter:@nhk_news
- 2019.07.16 Tuesday
- 20:57
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- by 昌裕