野球界の発展に大きな功績を残した人をたたえる「野球殿堂」に、通算2480安打を打ち、二塁打のプロ野球記録も持っている元中日の立浪和義氏など3人が新たに選ばれました。
新たに野球殿堂入りしたのは、競技者表彰と特別表彰の合わせて3人です。
競技者表彰のうち引退から5年以上が経過し、現役時代の功績が大きかった選手が対象となる「プレーヤー表彰」では、中日一筋で22年間活躍して通算2480安打を打ち、二塁打487本のプロ野球記録も持っている立浪氏が選ばれました。
また、プロ野球の指導者経験がある人や、引退から21年以上経過した人が対象の「エキスパート表彰」には、権藤博氏が選ばれました。権藤氏は現役時代、中日で2年連続30勝を挙げ連日のようにマウンドに上がる姿から「権藤、権藤、雨、権藤」とも言われ、指導者としても平成10年にDeNAの前身の横浜の監督としてチームを38年ぶりの日本一に導きました。
特別表彰にはアマチュアから、平成14年から6年間、高野連=日本高校野球連盟の会長を務め、現役プロ選手が高校生に技術指導を行うシンポジウム、「夢の向こうに」の開催に尽力し、アマチュアとプロの関係改善に貢献した脇村春夫氏が選ばれました。
これで、野球殿堂入りは競技者表彰が97人、特別表彰が107人で、合わせて204人になりました。
中日一筋22年 立浪氏
立浪和義氏は、大阪府出身の49歳。PL学園で甲子園春夏連覇を達成して、昭和63年に中日に入団しました。ルーキーで開幕戦に「2番・ショート」で先発出場するなど、当時の星野仙一監督の起用に応えて110試合に出場してリーグ優勝に貢献し、新人王と高校卒のルーキーで初めてとなる「ゴールデン・グラブ賞」も受賞しました。
平成15年にはセ・リーグ最年少の33歳10か月で通算2000本安打を達成し、ベストナイン2回、ゴールデン・グラブ賞はショート、セカンド、サードの3つのポジションで、合わせて5回受賞しました。
中日一筋で22年間プレーして平成21年に引退し、通算2480安打はプロ野球歴代8位、二塁打487本はプロ野球最多記録です。
立浪氏「すばらしい指導者に恵まれた」
立浪氏は通知式で「すばらしい指導者に恵まれたことでこの場に立たせてもらっていると思う。子どものころプロ野球で体が小さい人が活躍しているのを見て、自分もプロ野球を目指した。プロに入ってからは自分もそういう子どもに目標にされるように頑張った。これから野球界の発展のために1人でも多くの子どもにプロを目指してもらえるよう頑張っていきたい」とスピーチしました。
式典のあと、取材に応じた立浪氏は「22年現役でやれたことが評価につながったと思うし、自分でも大きなけがなくやれてよく頑張れたと思う」と話していました。また、入団したときの監督だった星野仙一さんについて「18歳の高校生を開幕からショートというポジションで使ってもらい、監督のいちばん厳しい時代を経験させてもらったと思う。このおかげで長年現役を続けることができた」と話していました。
「今後も野球界のために頑張って」PL学園元監督 中村順司氏
立浪氏がPL学園時代に監督を務めていた中村順司氏は、「立浪は体は小さいが、負けん気が強く、キャプテンとしてチームをリードしてくれた。プロに入ってからは、星野監督のもと厳しくも温かい指導を受け、活躍してくれた。これからも野球界のために頑張ってほしい」とお祝いのスピーチをしました。
連日のように登板「権藤、権藤、雨、権藤」
権藤博氏は、佐賀県出身の80歳。昭和36年に中日に入団し、1年目から69試合に登板して35勝、防御率1.70の成績をあげ、最多勝や最優秀防御率、新人王、沢村賞、ベストナインなどに輝きました。また、2年目にも30勝をあげ、連日のようにマウンドに上がる姿から「権藤、権藤、雨、権藤」とも言われましたが、肩を痛めた影響でピッチャーとしての現役生活は5年間でした。
引退後は、中日、近鉄、ダイエーの3球団で投手コーチを務めたあと、平成9年にDeNAの前身の横浜のバッテリーコーチを務めました。コーチ時代は、酷使されて肩を痛めたみずからの経験から「肩は消耗品」と主張し、中継ぎや抑えなど投手の分業制の確立につとめ、リリーフ投手の連投を避ける起用を進めるなど、当時としては画期的な取り組みを見せました。
そして、平成10年には監督就任1年目で「マシンガン打線」と呼ばれた強力な打線と、「ハマの大魔神」と呼ばれた佐々木主浩さんなどを擁し、横浜を38年ぶりのリーグ優勝と日本一に導きました。
また、おととしの第4回のWBC=「ワールド・ベースボール・クラシック」では日本代表の投手コーチを務めました。
権藤氏「自分に自分を謙虚にほめてあげたい」
権藤氏は、通知式で「現役時代は故障続きで苦しいことばかりだったが、横浜の監督時代は選手やファンに恵まれ助けられた。野球殿堂入りできたことは、一世一代の晴れ姿だと思うので、自分に自分を謙虚にほめてあげたい」とスピーチしました。
通知式のあと、取材に応じた権藤氏は、「ピッチャーとして長続きしなかった苦しみが強かったが、監督やコーチとして選手の痛みが分かるようになった。ワールド・ベースボール・クラシックのコーチも務められて、運もよかった」と話していました。
「痛烈に印象を残した」元中日 杉下茂氏
野球殿堂入りを果たした権藤博氏に中日の背番号「20」を引き継いだ杉下茂氏は、お祝いのスピーチで「『20番』が中日の看板投手の番号となったのは、権藤君が貢献したおかげだと思う。新人でありながら400イニング以上投げた姿は、痛烈にファンに印象を残してくれたし、投手コーチとしてもピッチャーの分業制を確立してくれたことは、先見の明があった」と話しました。
プロ・アマ交流の礎築く 脇村氏
脇村春夫氏は、東京都出身の87歳。神奈川の湘南高校では夏の甲子園初出場で初優勝を果たしました。高校卒業後は、東大野球部に進み、キャプテンとして活躍して、社会人野球の東洋紡富田でも都市対抗野球に出場しました。
その後、平成14年からは高野連=日本高校野球連盟の第5代会長を6年間務め、アマチュアとプロの交流に大きな制約がある中、現役プロ選手が高校生に技術指導を行うシンポジウム「夢の向こうに」の開催に尽力し、これを機に現役プロ選手の母校での練習参加が解禁になるなど、現在のプロ・アマ交流の礎を築きました。
脇村氏「まさか殿堂入りできるとは」
脇村春夫氏は「まさか殿堂入りできるとは全く考えていなかった。野球というのは、高校も社会人もプロも全部が一緒に楽しくやらないといけない。高野連の会長になった当時はプロとの関係がまったく閉ざされていたが、何とかしないといけないという気持ちだった」と話していました。
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