Calender

S M T W T F S
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   
<< October 2018 >>

Categories

Archives

Recent Entries

Recent Comment

w closet×JUGEM

エッセイ

《お知らせ》 この度、新たなエッセイが完成しましたので、LINE・ブログ・Facebookにて掲載発表させていただきます。ご意見・ご感想を寄せていただいたり、拡散して頂けると嬉しいです!「『動』と『静』の体育」

特別支援学校在籍中の体育の思い出に、今では、パラリンピックの正式種目として、定着している「ボッチャ」を先取りしてやっていた事が懐かしさと、ちょっとした自慢めいた感情にさせてくれています。
特別支援学校から一般校に進学したら実技への参加は難しいと意識した上で、高校生活が始まりました。いざ入学してみると、取り出しの先生と一緒にいられた事によって、予想を遥かに超える程に「ここでも体育を楽しめる!」と満面の笑みになれる程の経験ができたのです!ところが、1年目の学年末に自分の体調とそれに対する納得できない診断の連続の結果、日本語の記憶を失い、テストを受ける事すらできない状況になったのです。言葉に関しては、特に治療をする事もなく1ヶ月程で自然と取り戻す事ができました。そして、留年決定に関しても一般的な判断だと何の抵抗もなく受け入れる事が出来ました。
体育についても、年度末に大幅な体調不良になった事と次こそ進級と重視すれば、「実技参加は減るだろうけど、またできるのは楽しみだなぁ」程度に思っていました。ところが、現実はより厳しいもので学校側から伝えられたのは「基本的に実技参加はなしにして、レポート提出」でした。「確かに起きてしまったことは大きいし、これは配慮だとは理解している。でも、なぜ実技参加の全てをやめて、レポートとなるのか。」水頭症により一般の人より脳が3分の1しかないと言われながら育った私の体と思考は、完全停止してしまったのです。
小学生のときから詩などは好きで興味がある内容について好きなように書く事は私なりにできていました。しかし、テーマを決める事が前提になると、文章をまとめる力もなく書字速度が遅い中で、唯一選べた手段が参考文献の丸写しでした。こんな事を当時は真剣にやっていたのですから、今となっては苦笑いするしかありません。
この渦中に、「特別支援学校にはいたくなかったのであって、体育は『無罪』だった」と気づかせてくれました。体育の授業だけは、全員同じメニューと徹底されていたので在学中には自然だと思っていました。
「新しい体育」について考えるだけで、身も心もゆとりをなくしてしまいました。あまりにも、体育が好きである感情と現実的レポートを書かなければならない事の狭間で、苦しくなりすぎて授業中にもかかわらず心が爆発してしまったことも。学習面での問題は、数学以上に地理や地学などいろいろあったのに、寝ても覚めても体育が気になる日々。書くという作業が苦手な上に、「実技がない体育を、どのようして体育だと思えるようにするのか」ということだけで脳のほとんどを、占領されていました。
このやり方は、言うまでもなく悲惨で、効率が悪すぎました。これは、自分への甘えと指摘されるでしょうが、仕方なかったと振り返っています。なぜなら先ほどの通り、特別支援学校と高校1年目で、実技をたくさんやる事ができたからこその芽生えた感情に、違いありません。なので、あくまでも自然な結果だと捉えています。そして、初めて特別支援学校での体育教育に対して感謝しました。さらにいえば、特別支援学校の中でもあの学校だったからこその取り組みがあったと、この頃から思い始めるようになります。体育の授業で、レポート作成するのは自然で…家に帰ってもやるのはレポートばかりでした。正直言って、異常だと冷静に考えられる今なら思えるゆとりがあります。しかし、それが通用しなかったのが、この当時の私でした。「早く、この体育を楽しめるようにしなければ」と、とにかく常に意識過剰でした。その中おいても確かに一つの思いがありました。それは、『とことん楽しめる体育を、知った後の出会いとなった事は苦しい。だけど、この先生は必ず大好きな1人となるのはきっと間違いなく、幅広い体育を好きになれるのは、これが最初で最後だろう』という事でした。
高校時代の授業の中で、特に忘れられないエピソードはこちらです。
「創作ダンス」の授業に参加することができて、課題発表「ソーラン節」と、グループ毎に分かれて自由な作品を考えて校内にて発表するものでした。練習はかなりできたものの、本番は残念ながら体調不良のため欠席となりました。しかし、1年目の終わりに絶不調になった事を機に、とにかく体力温存を優先してきてもう授業参加は叶わぬ夢とまで思うようになっていた。それだけに、心の中ですっかり色褪せていたタイミングに、再びチャンスが訪れた事によって喜びと彩りを取り戻して、大きなパワーを与えてくれるものとなりました。
  • 2018.04.14 Saturday
  • 17:43

エッセイ

《お知らせ》 この度、新たなエッセイが完成しましたので、LINE・ブログ・Facebookにて掲載発表させていただきます。ご意見・ご感想を寄せていただいたり、拡散して頂けると嬉しいです!「ニッタンと出会って」

留年した私に、新しい日々が始まりました。同じ学校にいるのに、様々な事が変わり順応する事に時間がかかりました。
クラスメイトと担任が変わるのはもちろんです。ただ変化はそれだけに留まらず、私には二分脊椎症による障害があるため、トイレ介助と体育の取り出し授業に関わってくださった先生方が、新しいメンバーに。前年度の様子を観て、ついていくのが特に難しい授業には各教科に1人、サポートの先生がついて下さるようになりました。
この頃「特別支援学校にはいたくなかったのであって、体育は『無罪』だった」と気づかせてくれました。義務教育の9年間全てを過ごした特別支援学校では、体育については「全員参加」を徹底されていたのは、あそこだからこそできた事だと、やっと知ったのです。障害による症状は、それぞれに違うので、その都度必要なサポートやルール変更などを全員で話し、その情報を共有する事で楽しめる事が自然でした。そして、一般校に進学したら実技への参加は難しいと意識した上で、高校生活が始まりました。いざ入学してみると、取り出しの先生と一緒にいられた事によって、予想を遥かに超える程に「ここでも体育」を楽しめる!と満面の笑みになれる程の経験ができたのです!ところが、1年目の学年末に自分の体調とそれに対する納得できない診断の連続の結果、日本語の記憶を失い、テストを受ける事すらできない状況になったのです。言葉に関しては、特に治療をする事もなく1ヶ月程で自然と取り戻す事ができました。そして、留年決定に関しても一般的な判断だと何の抵抗もなく受け入れる事が出来ました。
体育についても、年度末の事と次こそ進級と考えると、「実技参加は減るだろうけど、またできるのは楽しみだなぁ」程度に思っていました。ところが、現実はより厳しいもので学校側から伝えられたのは「基本的に実技参加はなしにして、レポート提出」でした。「確かに起きてしまったことは大きいし、これは配慮だとは理解している。でも、なぜ実技参加の全てをやめて、レポートとなるのか。」水頭症により一般の人より脳が3分の1しかないと言われながら育った私の体と思考は、完全停止してしまったのです。それでも、授業の時間は黙っていてもやってきます。文章をまとめる力もなく書字速度が遅い中で、唯一選べた手段が参考文献の丸写しでした。こんな事を当時は真剣にやっていたのですから、今となっては苦笑いしかありません。
この頃に、「いつもレポート観てますよ」と、声をかけてくれたのが、この年に同校に赴任して来た体育科の先生「ニッタン」でした。言葉をかけてくれた嬉しさよりも、どんな心境で読まれているのかばかりが気になり、ソワソワしてしまいました。その日、帰宅してから熱心にやったことは皆様のご想像されているでしょう。レポートに「一心不乱」。しかし、やっぱり丸写しからは簡単には抜け出せませんでした。それでも少しずつ、私なりに書き方に変化が出てきて、「静の体育」を楽しめるようになったのです。まだ、この頃はその後の生活に役立つなど、全く思っていませんでした。
高校時代の授業の中で、特に忘れられないエピソードが2つあり、いずれも2年生の時の経験です。
1つは、「創作ダンス」の授業に参加することができて、課題発表「ソーラン節」と、グループ毎に分かれて自由な作品を考えて校内にて発表するものでした。練習はかなりできたものの、本番は残念ながら体調不良のため欠席となりました。しかし、1年目の終わりに絶不調になった事を機に、とにかく体力温存を優先してきてもう授業参加は叶わぬ夢とまで思うようになっていました。それだけに、心の中ですっかり色褪せていたタイミングに、再びチャンスが訪れた事によって喜びと彩りを取り戻して、大きなパワーを与えてくれるものとなりました。
2つ目は保健の授業で、自分が決めたテーマでレポートを作成し、クラス内で発表するものでした。この頃私は、17歳にして「小児喘息」と診断されて数ヶ月が経った頃だったので当初、「タイムリーな話題だし、書こうかな」と過ぎるも、すぐに立ち消えました。その理由は、クラスメートにも喘息の子がいて書くと話しているのを耳にして「仮に書いても、そんなに伝えられるものにはならない」と、心の中で結論が出たためでした。そうとなればどうしようかと考えた結果、「自分の障害について発表する事は、ここでは私にしかできない」という考えにたどり着きました。当時は、ちょうどメディアで「出生前診断」について取り上げれ始めた頃。日々の症状に加えて、表現しようがないほどの不安に駆られていました。だからこそ、「うまく落ちつけなくて迷惑をかけているけど、みんなに助けられながら、私も楽しく生きている」と、一刻も早く伝えたい一心から、書ける範囲でまずやってみたいと意思が固まった時点で、ニッタンに「先生、自分の病気について発表してもいいですか?」と、ある日の放課後に聞いてみたところ、すぐに快諾されました。
これはずいぶん時が経ってから知ったことですが、実際にはニッタンから母に「発表していいか」という内容の確認が取られていたようです。
私は、入学当時から病気について説明できる事から、友人達からの質問などがある度にしていました。ただ、全校生徒の前で話したいという気持ちは一度もありません。しかし、日々介助をして頂くのも担任も体育科の先生という状況下で、「発表をチャンスにしないともったいない」という思いが詰まっていました。この時に作成したレポートを書くにあたり、初めて二分脊椎症について書かれた手引きと向き合うことになりました。まとめた内容は、私が経験してきた症状を中心に女性の立場で伝えられる事について書き上げました。
そして、ニッタンが見守る中で発表当日を迎えました。普段は、にぎやかすぎるクラスメートがどの授業でも見たことがないほど静かになり、集中して聴いてくれました。終わった瞬間に湧き上がった感情は、聴いてくれたことへの感謝とこの発表をしたことの意味を深めたような思いでした。そして、目指せるだけこの仲間との卒業をしたいと、強く思うようになったのです。高校時代に担任としてお世話になった恩師たちに、卒業後も数回再会するチャンスがあり、楽しい時間を過ごせました。
彼女は、女性教員の中では、最もよく話していました。私にいつも合わせてくれるタイプで、時には、ママ、人生の先輩、そして友人のようで、いつも、寄り添っていただき、ありがたかったです。
卒業後、初めての再会は、2004年成人の日。一般の成人式に、自分が出席する姿も想像できず違和感があり、せっかくだから自分に合っていると心から思える一日にしたいという、強い希望からの再会でした。今でもとても記憶に残ってます。
エッセイ「ブログを書き続けるわけ」の医学雑誌掲載に伴い、ニッタンに報告。このことがきっかけで、私が難聴になったあとの2013年7月再会を果たしました。これまでたくさん話した時の雰囲気をずっと覚え続けていたこと、読唇術を身につけていたことで気持ちにゆとりを持ちながらでした。
このヒトトキに自信を持つことができたので、他にもお礼をお伝えしたい先生がいるし、エッセイの事を伝えてほしいと話したら、喜んで引き受けてくれて、ステキな思い出になりました。
  • 2018.04.04 Wednesday
  • 16:29

エッセイ

《お知らせ》 この度、新たなエッセイが完成しましたので、LINE・ブログ・Facebookにて掲載発表させていただきます。ご意見・ご感想を寄せていただいたり、拡散して頂けると嬉しいです!「再び笑い合えるまで」

10年7ヵ月という年月が経っていました。
この恩師は私の様子を察して、その時々によって対応の仕方をバラエティーに富んだものにして頂き、大きなハートで支え続けてもらいました。ただ、なかなかしっかり話せないまま留年した1年間を見届けて頂き、進級決定を共に喜んでくれたところで異動された事もあり…ずっと心残りでした。ですから、やっとこの日を迎えられたことに、嬉しさと安堵感が湧いてきたことを今も忘れられません。
そして、本当に久しぶりなのにも関わらず楽しく話せて嬉しかったです。

しかし、ひとつの問題がありました。
それは、記憶していた先生の口形や話すテンポは合っていたのですが、読唇術をするには難しかったのです。このため、ほとんど私から話し続けて…この時は終わりました。この現実は、想定を大幅に超える出来事でマシンガントークのようになってしまったことに対して、申し訳なさを感じたことは未だに色濃く、脳に刻まれています。
そのような感じだったのにもかかわらず、お礼メールを送ったところ、
「また会って、今度は一杯やりましょう!」
という内容の返信を頂けて、在学中と同じように助けられて嬉しかったです。そして、今度はもっと言葉のキャッチボールを楽しみたい!!
このものすごく強い思いから、彼女と似たような話し方・口形の女性をテレビなどで見つけると、食い入るように見つめながら、2人で話す時のシーンを思い浮かべていました。でも、なかなかコツを掴む事に辿り着けず、メールのやりとりを続けながらも、時ばかりが過ぎていきました。
そして、ようやく大丈夫と思えるようになった2015年8月。
「デートの先行予約ってアリですか?」と、メールで聴いたら、快い返信を頂く事が出来ました。

そして同年10月、2年ぶりの再会ができて、学校でお世話になった先生とは、初めての女子会が実現しました。
この日も、最初からワクワクしていました。そして、注目していた読唇術もスムーズとなり、ほぼ一方的に話し続けた前回とは大きく違い、聴きたい内容も伝えられて、またひとつ小さな自信がつきました。さらに、またお会いしたい気持ちも、ためらう事なく全面に出て来ました。
その1人に、留年中の担任としてお世話なった「コジコジ」。彼女は、前年からの2年間にわたって、私という人物を優しく見守りつつ数学という教科も軸にしながら、全体的に様子を観察してくれて、基本的に私がしたい事を楽しみながら、そばにいてくれました。卒業後彼女とは、ほとんど連絡をとっていませんでした。お会いする事も、無理かもしれないと思っていましたが、ひとつの事がきっかけとなり、一気に再会が実現しました。その日までに、10年7ヵ月もの時が過ぎていた。再会する予定がたった頃をきっかけに、メールをたまにするようになりました。そして、2015年のある日にメールで聴いてみました。ニッタンに体育のレポートについて質問した時と、同じように「数学ができない私は、先生にとってどんな生徒でしたか?」と。このような質問をするとは、経験豊富な先生であっても予想すらしていなかったようで、驚かせてしまいました。
それでも、しっかり答えてくださった内容は、今も時々読み返すほど、嬉しいものでした。その内容とは…
もっと、できない生徒とも接してきたので私をできない生徒として見ていなかったと添えられた上で、
「数学に関して言えば、通常級で過ごして来た子たちでも、劣等感しかない子たちは沢山います。それほど難しい教科なんだと思います。それに大人になっても、とりあえず計算だけ出来れば生きて行くのに困らないもんね(笑)」
など、とことん明るい反応に思わず笑みがこぼれる程でした。
  • 2018.03.28 Wednesday
  • 11:17

エッセイ

2018年3月号 福祉雑誌にエッセイを掲載させて頂きましたので、ここにご報告申し上げます。こ意見・ご感想・拡散していただけると嬉しいです。 「IT技術とともに」

皆様は、インターネットやSNSなどを普段、どのくらい活用されているでしょうか?
この技術を活用し日々感謝している私(34歳)は、最近『わたしの心のなか』(2014年すずき出版)という本に出会いました。主人公のメロディ(当時10歳)と私の障害の程度などは異なりますが、IT技術発達による恩恵を多く受けていることは、共通しております。
メロディは、脳性麻痺による身体麻痺に不随意運動があって、思うように動けない上に、重度の言語障害です。私は、二分脊椎症で下肢麻痺や股関節脱臼のため、移動には介助が必要でふだんはほとんどベッドの上でうつぶせになっています。また、高度難聴があり音のない世界ですごしています? でもあります。私たち二人には電話ができないことが大きなバリアの一つです。そのため、「伝えたい事もそんなにないのでは?」と、一方的に判断されるといった同じような経験もしています。
この環境を大きく変えてくれたのが、パソコンやケータイ・スマホの登場です。 それまでは諦めていた「一言を伝える」ことが可能になりました。メロディは、普段の意思表示を家族に伝えられるようになり、笑顔が大幅に増えました。
この部分を読んで、小学生の時にパソコンを楽しみ始めた体験を思い出し、メロディも同じような思いだったのかなと、重ね合わせるような感覚になりました。
さて、メロディはパソコンで意識(←意思、でよいでしょうか)表示をしていますが、私は成人直前からの中途障害の難聴者です。自然に身についていた読唇術も使え、手話や発声で会話することができます。でも、体調不良の時にはメールのありがたさを感じずにはいられません。
つい先日も朝、ポンコツ(頭の中に竜巻が突然発生した感じで活動できない状態)になり、いつも以上に思い通りの動作ができず、食事摂取を父に手伝ってもらいました。ひとまず落ち着くのを見届けてから、母は定時より少し遅れて出勤しました。母のお昼休みの時間帯になると、「ポンコツ具合は?」という簡単な確認のメールが、直接私に入りました。すぐ返信できました。このような通信機器がなければ、今回のような不調の時には「何も伝えられない人」とされてしまっていたでしょう。
私は伝えたい事を地道に表現する手段として、ブログとLINEのタイムラインを利用しています。ケータイは高校留年中(当時16?)だった2000年から使い始め、ブログを書き始めたのは高校卒業して数ヶ月が経った2003年夏頃から、スマホデビューは2013年3月末からです。現在は1日のアクセス数が1万を超える事も増えています。
LINEはアクセス数の確認はできませんので、モチベーションが今一つ上がり切らないものになっています。絵文字やスタンプが豊富になっていて、そういう表現にはインパクトはあります。でも、どの部分に対しての感想なのかがわかりません。
このように、私がコミュニケーションを取ることに、ブログやLINEがバリアフリーの役割を大きく果たしてくれています。運動機能低下により、単独外出が不可能な状態ですが、今は書くことを楽しんでいます。指を動かせば、「心の外出」ができるのです。私の一つの文章でも読んで温かく反応してくださる方々とつながっていること、小さな変化を一緒に喜んでいただけることが、私の中で大きなパワーへと進化しています。
IT技術と共に、これからもマイペースに冒険します。
  • 2018.03.06 Tuesday
  • 18:39

1