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「合言葉は『おまけの人生』」

「合言葉は『おまけの人生』」1《誕生から就学前まで》

出生時刻は、 午前6時28分。
水頭症を合併した二分脊椎症者の私は、1983年11月27日に産声をあげずに生まれた。出生時の体重は、3080g。分娩室に入ってから28.5時間経っての事だっただけに母には、「喜びなんてなかった、3分間隔がとんでもない展開になった」と、いまだに言われる。電話で生まれた事を知らされた父は、状況の把握が出来ないまま産院へ行き、私と対面。生まれた産院では、対応出来ない旨の説明をされた上で、一緒に病院に行ったと聴いている。
誕生からこれまでの人生で、手術室に入って受けた手術だけで10回程。
両親が、この子に本当に生命力があるのかと見続けた結果、本来ならば生後すぐに行うのが一般的である脊髄髄膜瘤の手術を、生後半年が経った頃に受けた。最初の病院では、体質の問題もありシャント術を3回するも全て失敗。次の病院で行った4回目でようやく成功。3歳ぐらいの時にとりあえず入退院終了。
その後、初めての集団生活が通園施設。
途中から一般の幼稚園にも通園。
そして、年長の一年だけ保育園生活。
この年長さんとして入れた保育園が大泉学園だった事から、朝霞から大泉学園へ引越して都民になる。幼稚園・保育園に行けたのは、通園施設と特別支援学校を除いては、特に障害者に対して理解のある所を選んだのではなく、受け入れてくれる場所に出会えたタイミングがよかったからだった。そして、より早く行くことが出来たのがたまたま幼稚園となったです。幼稚園と保育園で共通していたのが、障害児がほとんどいないという事。そのため友達から、「なんでオムツしているの?」、「なんで歩けないの?」などの質問は自然な事だった。その様子を見守っている母は、「全部本人に聞いて」と、私自身に答えさせるトレーニングとしていた。そのおかげで、自分なりにその都度、障害について説明できるようになり、成長するににつれてその内容も変化していった。家の中でも母から「なんで歩けないの?」、「なんで頭が大きいの?」と私の反応を観るべく、よく聞いてきたものです。そして、「歩けないものは歩けないんだよ!」、「頭が大きいのはしょうがないんだよ。」と明るく答えていたのでした。この母とのコミュニケーションと、診察での母とドクターとのやり取りを聞いたり、ドクターから私に対して質問された内容に答える中で、自分なりに病気に関連する事について理解できることは自然と身についてきたと感じています。
  • 2017.12.27 Wednesday
  • 16:16

「合言葉は『おまけの人生』」

「合言葉は『おまけの人生』」2《特別支援学校時代》

小学校入学に向けて、就学前から練馬区教育委員会へ母と行って相談するも…
一般校への見学すら叶わぬまま、都内の特別支援学校をお受験。面接教官のキャラクターが気に入り、保育園の仲間と同じ小学校へ行くつもりでいた気持ちは、どこへやら…。あっさり進路変更したのは1989年の春。特別支援学校の入試内容は、他の子供達と遊ぶ事が出来るかや、「かっぱえびせん」を出されて自分で食べることが、できるかのチェックなどでした。これは、仲間との協調性を観たり、入学後にどこまでの介助を必要とするか判断したりするポイントの1つです。ちなみに、キャラクターが最高だったのは、私の食事の様子をチェックしていた面接官を担当していた方でした。
入学してからは、あの憧れの方が副担任となった事も相乗効果となり、子どもらしく過ごしながら恋心は増すばかりの日々!!
両親に真剣に相談をして、「結婚したい」と話していたほどだった。一方教官側はというと…、ノリがよくて「お母様」と、冗談で呼ぶほどだったと今でも話題にする事があるほど、両親にとっても鮮明な記憶になるほどのエピソードとなっています。
学校での日常生活は私自身を入れて、8人が同学年として入学し、「日本一うるさいクラス」と担任に言われるほど、障害としては学校で相当重度なメンバーであったが、コミュニケーションは元気だった。外部から見学者などの多さや、友人達と校内においてメディア取材を受けた経験から、この学校が注目されている事など、何となく目立つのは感じていた。その中にあっても友人・教官達とともに、小4までは私なりに無邪気で楽しく過ごせました。
しかし、様々な事を経験する中で、教官からスポーツも勉強も秀でるものがない私に対して、期待していないことを次第に気づき始める。小4の時に、再度母が一般校への在籍を検討し、教育委員会に行くも…「養護学校が最適です」と、実態把握をしていないのにも関わらず言われてしまい、平行線。ただ、この時点では私にとって、まだ楽しみの方が多かったことことから、「高等部まで12年間ずっとこの学校に行く」と、言っていました。

自分の記憶にある初めての手術を受けたのは11歳でした。私の場合、体内に収まった状態であるべき神経の一部が腰部から飛び出してかろうじて表皮で覆われた状態で誕生。生後まもなく体内に収める手術を受けるべきところ、半年後まで生命力を見極められた上で受けたと母から聴いています。脊髄係留症候群の手術内容としては、豆腐のかすのような頼りない神経を傷つけない程度に、キレイにお掃除をして収めてもらうものです。一般の人のように神経にゆとりがなく、琴の弦のようにピーンと張ってゆとりがない所に、ゆっくりながらも成長する体の変化についていけなくなり、症状は人によって異なりますが、私の場合は激痛・嘔吐を寒くなる度に繰り返しました。ピークの3シーズン目となった1995年3月(当時小5)の時は、一番ひどい症状で春先にも治まらず、半年間顔面蒼白の毎日だった。脳外科のドクターから手術内容やその効果の可能性を聞いた上で、お願いしたのが、脊髄係留症候群のための手術だった。誕生から症状を食い止めるために受けてきた手術は、この症状に対しても、あくまでも神経をお掃除するためだった。術後は、激痛がウソのように消えた。
退院後、上石神井にある今の家に引越しました。正確には、私の入院中に完了していたのです。学校側から学習・スポーツの両面から期待されていない事を多く感じるようになっていた1996年、小学部卒業。
他に行ける学校がない現実を理解して中学部へ内部進学。幼い時から、スイミング・ピアノ・そろばん・パソコン・子ども英語など、たくさんの習い事を母が見つけてくれては全部好きになる。様々な思いが積み重なって、登校が難しかった時期も、習い事が支えとなったので、ありがたかった。中学進学直前から、英語塾中心の生活を2年生の秋まで送る。その後、一般高校進学に備えて英語以外の教科についても考えて、初めて本格的な学習塾へ通い始めました。
  • 2017.12.27 Wednesday
  • 16:15

「合言葉は『おまけの人生』」

「合言葉は『おまけの人生』」3《高校生活 1年目》

成績は、悪かったものの…数学を除いてほぼ教科書の内容を終えて、1999年2月高校受験。後に、送られてきた入試成績がひどすぎて驚きを隠せなかったが、無事合格!
1999年4月に高校へ入学し、芸術は母からの半強制的判断により書道となりました。その理由は芸術の中で一番、用意する物が少なくてやりやすいだろうと、考えてのことでした。さらに母は、筆ペン程度を想定していたのですが、実際にはしっかり墨・墨汁と筆を使って書く事になったので、これには驚いていました。教科担任とは別に1人女性の先生がついて下さりながら、課題として出された内容をみんなと同じように提出。特別支援学校時代には、お遊び程度にしか経験がなく、書道に対してのイメージはとにかく地味なものとしかなく、全く乗り気ではなかった。しかし、徐々に書ける喜びを感じたり、留年してからは、半紙よりも随分大きな紙を用意して頂いて、課題の提出が終わったら、好きな言葉を書かせてもらえるようになりました。その結果、あれほど渋々始めたのがウソのようにしっかりハマった。その様子を観て母がすかさず、「私の考えに間違いはない」という内容の話をされて、苦笑いするしかありませんでした。
必修選択は、2年生までだったが単位が確実に取れること、そして何より大好きになり3年生まで、同じ先生と共に4年間続けさせていただきました。
高校入学からほぼ2ヶ月間は、しっかり登校が出来るほど順調でした。定期テストは、書字速度が一般より遅いことから入試の時と同じように、別室にて時間延長。しかし、延長しても成績が上がることには結びつかないことが分かったので、1学期の期末テストからは「みんなと一緒に教室で受けたい」と伝えた結果、普段と変わらない状況であれば、別室対応はされない事になりました。
トイレ介助が必要なため、担任と介助のためについて下さった体育科の先生方は、ほぼ女性にお願いしながらの生活。
体育の授業はできる範囲内で参加して、それ以外は先生と1対1でその時できる事を行うスタイルでスタートした。
このまま順調にいけばと、望んでいた日々が…一変してしまった。それは、球技大会のこぼれ球が、首元にあたってしまった事が始まりだった。強くはなかったものの、むち打ちのような状態となった。幸い、大きな症状は残らなかったが右手中指の不随意運動がよく発生するようになった。元々利き手は左手でそれ以降も、自己導尿や字を書くことも続けていたが指先に力が入りにくくなり、その感覚に慣れるのにも時間がかかった。これがきっかけとなり、スムーズに登校できなくなった。それでも、登校はしたい気持ちは途切れませんでした。この学年での進級よりも、とにかく行事の日は、通院に充てるなどセーブしながら、学校生活が続けられる事をそれまで以上に、考えるようになる。さらに、他の症状も頻発するようになる。
時を遡り…私が、自己導尿をできるようになったのは小4の10月でした。同症の友達は、習得するために入院をするのが一般的でしたが、私は自宅にて感覚で覚えました。当時の特別支援学校は小3まで、保護者が当番制でトイレ介助をしてくれるシステムとなっていました。それでも、導尿を他人にお願いする事は、医療行為だとして問題視されるような時代だったのですが…。その中でも、クラスメートのママたちは自然に覚えてくれたことで、私は学校生活を他の子と同じように送る事ができたので、今も感謝を忘れずにいます。自己導尿は、単独行動のピークだった2007年夏頃まで続けました。以降、バルーンカテーテルに切り換えています。その時点では、慣れてない方にトイレ介助の全体をお願いすることに限界があることや、元々股関節が完全に脱臼しているため、片手を股間に通すだけでも難儀でした。さらに小6の時からは側弯症にもなり始め、姿勢保持が難しくもなっていました。さらに、感覚で覚えていた排尿の始まりと終わりのタイミングを音で覚えたのですが、聴覚障害の影響で、分かりにくくなっていたのです。
のちに、大幅な運動機能低下した時に、この判断の大きさを感じる事になるのです。
そんなモヤモヤ体のままで、迎えた2月15日の朝、様々な疲れによるストレスにより発作を起こした。そして、日本語の記憶も飛んでしまった…。当時、好きな男子が隣の席にいて前日のバレンタインに告白するも…フラれていた。この告白は自発的ではなく、クラスメイトの勢いに飲まれるような状況を作られてしまった事により、実行に至ったものだった。後日、まだ自分が話す言葉も相手の言葉も理解しているのか不明で、頭の中がふわふわした状態で、この件について聞かれて、彼から私に電話があってフラれた事を伝えた。私としては、フラれた事に納得ができたし、それ以上の事は思わなかった。しかし、翌日に発作となった事実から、失恋ショックによるものと思われていたのは確実だろうし、こればかりは仕方ないと受け止めている。
  • 2017.12.27 Wednesday
  • 16:13

「合言葉は『おまけの人生』」

「合言葉は『おまけの人生』」4《日本語を失い留年へ》

我が家は、ずっと家族の事をお互いに名前で呼び合っていたので、良く珍しがられていました。しかし、日本語の記憶を失った私は両親を、名前を呼びかける事ができなくなってしまい、16歳からパパ・ママと呼ぶようになりました。母は、この状況でも何も変わらなかった。しかし、父には「名前で呼んで」と何度も言われて、求めれることに言葉では表現しようがない思いになった。私自身、何が起きているか分からない現実の中、日本語を再び話せるようになるまでの約1ヶ月、「日本語が話せなくてごめんなさい」と、父に謝り続けた。日本語を取り戻すにあたり、特別な治療はしていません。原因不明の発作は、中学部在籍中とこのあとの高校生活でくり返し起こしていたが、日本語を失うという経験は一度だけ。この発作を境に、もう一つは大きく変わったのが、味覚でした。大好きで八王子に毎週のように、マッサージ治療へ行った帰りに、決まって食べていたお蕎麦。お店のメニューをすべて食べ尽しそうなほどだったのに…かゆみを感じるように。こうなったのは「もう一生分の蕎麦を食べたんだよ」と、神様からのお告げではないかと考えています。この他餃子に、元々、好きではなかったあんかけが同じく症状が出るようになったため、食べられなくなりました。
そのため、外出時は中華料理を避けるようになり自宅でも、メニューを変えてもらったり、片栗粉を使うところ小麦粉に変更して母に対応してもらっています。
餃子は、母が在宅の時にたまに1個だけおいしく食べます。だけど、やっぱりかゆいという嬉しくない現実がもれなくやってくる。同じ頃から反対に、猛烈に食べたい!と言い始めたものもあるのですが、どんなものを想像されるでしょうか?正解はひじき。それまで少なくとも一般的な五目煮などは、好きではなかったし医学的な説明こそ無理ですが、本能で体が欲していたものだと思います。「ないと死ぬ」と発言していたほどでしたので。そして、「今日はないよ」と、母から言われた日にはしょぼくれていました。それ以来、ひじきはサラダなどで我が家の定番の一品に加わりました。
話は高校へと戻り…この状況でも、受け入れてくれた仲間や恩師達と話す中で、ある日突然、日本語の記憶を戻った。この1ヶ月間、母と先生達は教科書や板書ノートのコピーに、ローマ字や平仮名を書いて内容の理解は無理であっても、読める状況を作ってくれていました。そして、学年末テスト。言うまでもなく全滅…英語すら、設問の日本語が理解出来なければ答えられない現実に落胆した。留年決定。正直、決定にはホットした。ただ、担任からの電話連絡の時には泣いていたので、留年がショックだと勘違いされていた。確かに、仲間と進級できない寂しい気持ちがあった。しかし、電話の向こうの担任と離れられるという現実の一方で、学担からクビにするという罪悪感に襲われて、泣き止むことができなかっただけ。この時、私は1人だった。この電話を受け取ったのが母ではなくて私でよかったと、ずっと思い続けている。なぜなら、色々と納得のいく診断がされなかった事よりも、つらく納得しきれない内容だったから。留年決定までの1年間で、何度か行われた三者面談でも心の距離が遠すぎて限界を感じていました。さらに、私が彼女を好きになる事を意識すぎている事を母は察してくれて、早い段階で「無理だから彼女の事を好きになろうとするのはあきらめな。」と言わせてしまった事もありました。どうしてこの言葉にたどり着いたか。それは、初めての定期テスト後の三者面談の時のことでした。成績が全体的に悪かったのは確かだが…「特別支援学校に戻れば」と、言われるとは想定しておらず言葉を失った。その後の話では、高校生活の継続に向けての声かけはあったが、前言による衝撃が大きすぎて…どれも心に響くものとはならなかった上に、時間が長く感じた程に終わるのを待っている自分がいた。私についての話し合いの場のはずなのに…。母と担任に対して、謝りたくなるほどの心境に陥っていた。私のような動揺こそしなくても、母も担任に対して限界である事を覚悟したのは、確実のはずです。だからこそ、電話の内容はすぐには母へ伝えようとはせず、留年決定のみに限定しました。そして後日、留年するにあたり「次は進級する」と決意を手書きの簡素な誓約書を、母との間で交わしました。在籍継続については、最終的に自己決定したものの、この時点では「今後どうなるのかな?」と、不安の方が先立っていました。その思いを落ち着かせてくれる事柄がありました。それは、留年引き継ぎに伴い登校した日でした。この日に行われたのは、まず留年する事が決定した生徒とその保護者、そして1年を共にした学年担任達が一室に集合。そして、生徒側から留年するにあたり簡単な想いを伝え、その後、学年担任達から一人一人の生徒に向けて言葉をかけられた。次に、新しい学年担任達と対面し、同じように言葉を伝え合うというものだった。この引き継ぎの際に、それぞれの学年担任から声をかけて頂きました。特に、社会科担当・男性の先生からの一言が心に響き、登校継続への後押しとなった。彼がこの学校で教壇に立っていたのは、必修科目の倫理と政治・経済、選択科目の日本史。私は必修科目特に、倫理の授業で聞いていた言葉に惹かれ、先生のキャラクターもどんどん好きになり、同時進行で男性の英語科・体育科の先生各1人と共に、私が学校生活を送りたいと、思い続けられるような精神面においての欠かせない大きな柱のような存在となっていたのです。男性の中で、最も話したのは英語科の先生で、頻繁に職員室にお邪魔していました。社会科の先生は、定期的に私の方に歩み寄ってくれる形で、クラスでの様子などちょっとした話を聞いてくださる程度がほとんどでした。好きになるにつれて、それだけでは足りなくなり職員室で言葉を交わせると嬉しくてたまらなかったのです。1年目は職員室で英語科の先生と話していると向かい合わせの席にいらした社会科の先生とも、お会いできる絶好のチャンスだったので、行き続けたい大きな理由となっていました。英語科と体育科の先生が異動されるまでの3年間このスタイルは、続けました。
  • 2017.12.27 Wednesday
  • 16:12

「合言葉は『おまけの人生』」

「合言葉は『おまけの人生』」5《体育が好きと気づいて》

そして、新しい日々が始まった。
同じ学校にいるのに、様々な事が変わり順応する事に時間がかかりました。
クラスメイトと担任が変わるのはもちろん。ただ変化はそれだけに留まらず、トイレ介助と体育の取り出し授業に関わってくださった先生方々が、新しいメンバーに。前年度の様子を観て、ついていくのが特に難しい授業には各教科1人サポートの先生がついて下さるようになりました。しかし、事前に何も伝えられずに、この体制となったのでクラスメイトから「なんで先生が来るの?」といった質問をされても、答えきれず、新しい体制に慣れることだけに精一杯でした。
さらに、年度末に発作を起こした事を受けて、基本的に実技参加はなしに。代わりにレポートを提出。学校側の対応そのものは、自然だと頭では理解するも…心がとてつもなくついていけなく、混乱の日々が始まった。この状況になって、気づいたことがありました。
特別支援学校でも、いろいろあったが…体育の授業だけは、全員同じメニューと徹底されていたので在学中には自然だと思っていました。しかし、余程の体調不良でない限り確実に参加できたというのは、すごい事だったのだとこの時に痛感させられたのでした。今では、パラリンピックの正式種目として、定着している「ボッチャ」を先取りしてやっていた事が懐かしさと、ちょっとした自慢めいた感情にさせてくれています。私は、特別支援学校在籍途中から「体育は嫌い」と思い込んでいました。しかし、外部進学して1年目に「一般校でも、ここまで実技に参加できるんだ」と、味わった後の現実はつらすぎた。もちろん、学年末に発作を起こしたに重きを置いた結果、学校側の寛大な配慮だと頭では理解するも、心が全くついていけるような状況ではありませんでした。
この渦中に、「特別支援学校にはいたくなかったのであって、体育は『無罪』だった」と気づかせてくれた。ここから、「静の体育」と向き合う日々が始まった。元々この高校への進学はギリギリになって、母が英語指導に力を入れているという資料と出会った事で目指すと決めてくれた学校で、私もそのつもりでいました。しかし、体育でも書く事を求められた結果、他の教科は捨てました。英語も例外なく…他の教科も、全く余裕がなく先生からサポートを受けている状況だったのにもかかわらず。「新しい体育」について考えるだけで、身も心もゆとりをなくした。あまりにも、体育が好きである感情と現実的にレポートを書かなければならない事の狭間で、苦しくなりすぎて授業中にもかかわらず心が爆発してしまったことも…。ちなみに、この学年の必修英語のテスト内容はラクになり、これだけやらずいても、赤点にはならない程度の点数は取れていたので、都合の良い解釈をし始めたのです。学習面での問題は、数学以上に地理や地学などいろいろあったのに、寝ても覚めても体育が気になる日々。文章をまとめるなんて、当時の私には高度すぎました。だから、留年中は量で勝負!!参考文献の丸写しという、今となっては何とも恥ずかしい事を、大真面目にやっていた。書くという作業が苦手な上に、「実技がない体育を、どのようして体育だと思えるようにするのか」と言うことだけで脳のほとんどを、占領されていました。
ただでさえ、水頭症のため脳室に髄液が過多に溜まり、脳が一般の人より3分の1程しかないと言われながら育った私が、さらに効率の悪い方向に走り続けてしまったのです。このやり方は、言うまでもなく悲惨。これは、自分への甘えと指摘されるでしょうが、仕方なかったと振り返っています。なぜなら先ほどの通り、特別支援学校と高校1年目で、実技をたくさんやる事ができたからこその芽生えた感情に、間違いはないから。あくまでも、自然な結果だと捉えています。そして、初めて特別支援学校での体育教育に対して感謝しました。さらにいえば、特別支援学校の中でもあの学校だったからこその取り組みはあったと、この頃から思い始めるようになります。体育の授業で、レポート作成するのは自然で…家に帰ってもやるのはレポートばかり。正直言って、異常だと冷静に考えられる今なら思えるゆとりがあります。しかし、それが通用しなかったのが、この当時の私である事に違いない。「早く、この体育を楽しめるようにしなければ」と、とにかく常に意識過剰でした。各教科のサポートは、その教科の先生方がして下さっていました。それでも、人が毎日する事の1つであるトイレに介助を必須とする立場の私は体育科の先生との接触が、決まった時間にある毎日は変わらず、土曜日に授業がある日には介助を担当して下さる方が不在となるため、母にお願いしていました。この悶々としていた時期から、少しずつ話すようになったのが、「ニッタン」でした。彼女は、この年に赴任してきた体育科の先生で、この学年女子の体育全体を担当されていました。学年集会終わりの時に、話しかけて頂いた事が彼女との初めての会話で今でもその光景は鮮明です。「いつも、レポート拝見していますよ!!」と、明るく声をかけて頂いたのに対して内心タジタジしながら…「ありがとうございます」と、返事をするだけで終わってしまった。体育科の先生達も、他の教科の先生と同じくもちろん職員室に席はありました。さらに、「体育教官室」という別室に席があって、私も入学直後に授業内容について母も同席の下で話し合うために、一度だけ入らせてもらいました。 この学校は、エレベーター・車椅子用トイレがあり、基本的にはバリアフリー設備が整っていました。そこまで、揃っていても階段や段差があり、1人では行けない部屋がありました。それが、英語のコミュニケーションの授業時に使う部屋と、この体育教官室。教官室のスペースは、実務的という言葉がピッタリなコンパクトなものでした。話しかけられて、真っ先に思い浮かべたのが、この部屋の存在。「あの空間で、私の丸写しレポートを…」と思ったら、とてもじゃないが胸中に落ち着く場所など、どこにもなかった。その日の帰宅後の私の行動は、もう皆さんもご想像されていることでしょう。より一層、一心不乱の状態で?(笑)ひたすら、レポートを書くのみ。実に…わかりやすいにも程があるといったところでした。でも、書き方を変えるまでのスキルはなくて…やっぱり丸写し。
ニッタンとは、今もありがたい事に連絡を取らせていただいています。恥ずかしさのあまりにずっと、当時の事を聴けずにいたけれど…2016年に再会した時に、思い切って「どんな心境で読んでいただいていたのでしょうか?」と、質問してみました。その答えは、「レポートを提出する気持ちもなければ、書かないでしょ?」と、その寛大すぎる一言で驚きと共に救われたのでした。確かに一つの思いがあった。それは、『とことん楽しめる体育を、知った後の出会いとなった事は苦しい。だけど、この先生は必ず大好きな1人となるのはきっと間違いない。そして、幅広い体育を好きになれるのは、これが最初で最後だろう』という事。
  • 2017.12.27 Wednesday
  • 16:11

「合言葉は『おまけの人生』」

「合言葉は『おまけの人生』」6《書き始めるための一歩》

進級後も、体育のレポートに軸を置き続けました。しかし、レポートの量は減少。その理由は、選択科目で書く必要性が増えた事にありました。その科目は2年生の時の基礎国語と3年生の時の小論文。
しかし、やっぱり書けないところから脱出する事は、私にとって容易ではありませんでした。その状況を把握して下さったそれぞれの教科担任の先生から「形は気にせず、書けるものを提出して」と、話して頂きました。ありがたさを感じると同時に、ずいぶん心がラクになった事を記憶している。その中でも基礎国語は書けるものもあり、みんなと同様の課題に沿ったものを、それなりに提出できた事もあった。これが、長文を書くことに面白さを知るきっかけとなり、少しの自信へとつながりました。
一方、小論文は全く書けませんでした。その大きなと要因となったのは、「テーマに沿って、規定字数内に収めることができない」事にありました。そのため、その代わりに提出していたのが詩です。拙いものにも関わらず、小さな変化にも気づいて下さった事で喜びがコツコツと増えていきました。そして、この時の経験は深く刻まれる事になります。
スキルはまだまだ必須だけど、やはり継続して書き続ける事しかないと身に染みながら前進中。その中で小さな喜びを積み重ねたいです。
ユニークに私の相手をして下さる先生は他にも多くいた。その1人に、留年中の担任としてお世話なった「コジコジ」。彼女は、前年からの2年間にわたって、私という人物を優しく見守りつつ数学という教科も軸にしながら、全体的に様子を観察してくれて、基本的に私がしたい事を楽しみながら、そばにいてくれました。卒業後彼女とは、ほとんど連絡をとっていませんでした。お会いする事も、無理かもしれないと思っていましたが、ひとつの事がきっかけとなり、一気に再会が実現しました。その日までに、10年7ヵ月もの時が過ぎていた。再会する予定がたった頃をきっかけに、メールをたまにするようになりました。そして、2015年のある日にメールで聴いてみました。ニッタンに体育のレポートについて質問した時と、同じように「数学ができない私は、先生にとってどんな生徒でしたか?」と。このような質問をするとは、経験豊富な先生であっても予想すらしていなかったようで、驚かせてしまいました。
それでも、しっかり答えてくださった内容は、今も時々読み返すほど、嬉しいものでした。その内容とは…
もっと、できない生徒とも接してきたので私をできない生徒として見ていなかったと添えられた上で、
「数学に関して言えば、通常級で過ごして来た子たちでも、劣等感しかない子たちは沢山います。それほど難しい教科なんだと思います。それに大人になっても、とりあえず計算だけ出来れば生きて行くのに困らないもんね(笑)」
など、とことん明るい反応に思わず笑みがこぼれる程でした。
この高校は、かつては成績がトップクラスと言われていた事は、なんとなく聞いていました。私のように偏差価値にゆとりがないケースこそ少なかったけれど、いわゆる「燃え尽き症候群」などが多く通うような姿に変わっていたのです。そのため本当に勉強に関心がない子から、テスト前に少し勉強すれば安泰な成績が出せる子まで、一緒のクラスにいる状況が自然でした。彼らはフルパワーの時期の真っ盛り!!勉強以外の事で、特別支援学校では考えもつかないような、あんなことやこんなことの連続!!私自身の体調不良の時ももちろんありましたが、発生した事態に驚きすぎて保健室に避難したことも数多くありました。例えば、学校で花火の音が突然するなど、今考えてもなぜなのか不明なことの連続だったのです。その状況を観て、さっきまで遊びモードだった仲間たちもとても心配してくれて、保健室まで連れて行ってくれる事もありました。
  • 2017.12.27 Wednesday
  • 16:10

「合言葉は『おまけの人生』」

「合言葉は『おまけの人生』」7《エレベーター事故、そして修学旅行断念》

私自身の体調不良に関する詳細の中には、病気だけではなく事故によるものもが多かったです。
小学部の時は、車椅子から車椅子に乗り移る介助を教官にしてもらった時に失敗して、床に頭部を強打。
中学部の時には、校内のスロープを1人で降りている時に加速し過ぎて、足元に置いていた教科書に額を強打し縫合が必要となる事態になりました。この治療はスムーズだったものの、局所麻酔に対するアレルギーがあることが判明し、素面で縫合してもらいました。それ以降、10種類以上の薬が使えない事が明らかになり、各医療機関を受診する度に、「こんなに使えないの?」と、驚かれる事の繰り返しです。それまで以上に注意深く確認しながら、検査などを受けるようになりました。
別の日に、脳波を受けた際「今日が命日なるか」と、過ぎらずにはいられない事態に陥った事があります。いつも私は意識して検査を受けると全く寝ないタイプ。ただ、この日は原因不明の発作がどこにあるかを確認する事が不可欠で、寝ている時の波形を観るのが必須だったのです。そのため、座薬を入れてもらい眠ることになり、スムーズでした。しかし、10分ほどで私はかゆみと息苦しさで一気に、目覚めた。原因は、座薬を入れられた時に使用したキシロカインゼリーによるアナフィラキシー。全身が腫れ上がる異常事態と発展したのは、あっという間の出来事で脳波は当然中止。検査を無事受けているだろうと思って外で時間を潰していた母は対面するなり、「今度は何が起きたわけ?」と、自然な対応だったのが印象的です。この日は結局、解毒のために22時まで病院にいる事になってしまいました。後日、母から「あなた自身も薬に関して確認しなければダメだよ」と指摘された事を受けて、「変に安心していてはいけないんだ」という自覚をする第一歩となりました。高校時代には、ラテックスアレルギーの自覚症状が表れ、厳選して受けてきたとはいえ、治療による蓄積の大きさをひしひしと感じるようになりました。
そして高校時代の事故は2002年、校内にて手動車椅子を自力で操作して、エレベーターから降りようとした際に、いつもなら自分のペースで出来ていたことが、完全にうまくいかず車椅子から落ちてしまった事がありました。発生したのが授業中で、しかも学年末。普段なら、ちらほら同級生も通りかかるので、助けを求めやすくても、さすがに、この時期は進級に向けて個々に必死な事もあり、人通りも少なかったのです。助けを求められるまでの間に、「ガシャン、ガシャン」とドアに何度も挟まれたことは、音と記憶の中の映像とともに今も、はっきりと留めています。この時に聞いた音が当時の自分には強烈過ぎたことや、補装具を履いていて足自体は保護されていたものの、ドアに挟まれたことによって感覚麻痺があるのに痛みを感じたため、この日は早退しました。そのまま、いつもの小児科の病院を受診して、レントゲン検査を受けたところ…「骨に少し傷がついたかも」という診断を受けた。皮肉にも、この診断が高校時代の中で唯一、心因性とは判断されなかった症状となった。この事態を受けて、ドアの開閉時間を延長して頂きました。その後も登校は続けられたものの、音に対する過剰反応が、ものすごく増えてしまいました。それは、担任から各教科を担当していた先生方に対して、事情説明や大きな音や声を可能な範囲内で控えてもらえるように、お願いをしてもらなければならないほどでした。それでも、うまく教室に居られないことが多々ありすぎて、長時間にわたって保健室にいさせてもらっていました。
様々なご迷惑をかけ続け、いろんな人々を巻き込み、対応してもらなければならなかった現実には…今も申し訳ない気持ちがあります。それでも、その気持ちより遥かに粘り強く対応してくれたり、共にいて変化を気づき続けてくれた高校時代の仲間や恩師の方々への感謝する思いは絶大で、言葉で表現しきれるものではありません。この事故によって、テストを受けるにはストレスが大きすぎるとドクターと相談の上で判断するに至り、ニッタンを通してテストは受けられない事を、学校に伝えてもらう対応をお願いしました。
実は、この事故とは関係なく一つの決断を伝えなければならないと、母から念押しされていました。そのため、無意識のうちに緊張していたのは確実です。その決断とは、「修学旅行への不参加」。障害がある事から、早くから話し始めていた。私より軽度障害者の生徒であっても、親の同行が通常となっていたため、そこを軸に教頭との話は平行線になっていました。しかし、この日不参加を伝えた時になって「ボランティアと行けばいいのに」なんて言い出したのです。同じく断念する結果となったとしても、大きく印象が違うと思った私は、これまで話に関わってくれた母とニッタンに「謝って」と思いながら、その場にいました。修学旅行を断念する結論に至ったのは、元々の予定地は沖縄だったのが、世界情勢の影響により、行き先が寒い地域に変更されたことにありました。「東京にいてもこれだけ体調不良の連続なのだから、学校生活の継続を優先させるべき。それでも行くと言うなら、私は学校の送り迎えもしない。1人ですべてやりなさい。」と、母から話されていた。その時には、言葉ならない感情で溢れ返ったが、判断は正しかったと思うようになり、大事な節目毎に守ってくれている彼女へのたくさん感謝の思いがあります。
  • 2017.12.27 Wednesday
  • 16:08

「合言葉は『おまけの人生』」

「合言葉は『おまけの人生』」8《成人後の事故》

成人後にも、電動車椅子で2回事故を経験しています。1回目は時期は2005年頃で、単独で横転してまって偶然通りがかりの方に助けられた事がありました。電動車椅子が動かなくなってしまったので、手動に切り換え、自宅まで送り届けてもらいました。
2回目は2009年11月末。電動車椅子を自分の操作ミスにより誤作動させた結果、手動ドアに衝突しガラスを大きく割ってしまった事があった。この時は、体に感じた振動はもちろん大きかったが、自らが引き起こしてしまった事への重大さが、第一となりました。そして、自分だけでは対応出来る範囲内ではない事を、即判断しなければならず、お店側に対してお詫びの気持ちを持ちながらも、「音のない世界」に移住してから6年が経っていた当時、いかにパニックにならず相手の話を読み取ったり、両親への説明が最優先させまし。なお、この事故による目視から分かるケガはありませんでしたが、ドアに衝突したことによって、「軽度外傷性脳損傷」を発症したと、後に脳外科で診断されました。これ以前からあった様々な症状の積み重ねがある上に、さらなる衝撃となったので、一気に大幅な運動機能の低下する引き金となりました。発症の翌日から、まるで麺棒で叩かれたこんにゃくのように全身に力が入らず、頸椎から腰椎にかけての広範囲にわたる激痛などの症状に振り回られる日々が、ずり這いができるようになるまでの2ヶ月半続きました。この間は、それまで以上に介助してもらっても通院すら出来ない状態でした。不随意運動も激しく、高校在学中から毎日楽しんでいたケータイ操作が数少ない出来る事の一つとなっていました。そのため、2005年頃から、徐々に楽しみの幅を拡げていたブログに自分の現状を投稿する事で簡素な内容にもかかわらず、少しでも私の症状の現実を把握してくださったり、小さな回復を共に喜んでもらい、外界とのつながりを強く感じられて、大きなエネルギー源となりその存在の大きさは今も実感し続けていました。
  • 2017.12.27 Wednesday
  • 16:07

「合言葉は『おまけの人生』」

「合言葉は『おまけの人生』」9《高校時代のエピソード》

高校時代の授業の中で、特に忘れられないエピソードが2つあり、いずれも2年生の時の経験です。
1つは、「創作ダンス」の授業に参加することができて、課題発表「ソーラン節」と、グループ毎に分かれて自由な作品を考えて校内にて発表するものでした。練習はかなりできたものの、本番は残念ながら体調不良のため欠席となりました。しかし、1年目の終わりに絶不調になった事を機に、とにかく体力温存を優先してきてもう授業参加は叶わぬ夢とまで思うようになっていた。それだけに、心の中ですっかり色褪せていたタイミングに、再びチャンスが訪れた事によって喜びと彩りを取り戻して、大きなパワーを与えてくれるものとなりました。
2つ目は保健の授業で、自分が決めたテーマでレポートを作成し、クラス内で発表するものでした。この頃私は、17歳にして「小児喘息」と診断されて数ヶ月が経った頃だったので当初、「タイムリーな話題だし、書こうかな」と過ぎるも、すぐに立ち消えました。その理由は、クラスメートにも喘息の子がいて書くと話しているのを耳にして「仮に書いても、そんなに伝えられるものにはならない」と、心の中で結論が出たためでした。そうとなればどうしようかと考えた結果、「自分の障害について発表する事は、ここでは私にしかできない」という考えにたどり着きました。当時は、ちょうどメディアで「出生前診断」について取り上げれ始めた頃。日々の症状に加えて、表現しようがないほどの不安に駆られていいました。だからこそ、「うまく落ちつけなくて迷惑をかけているけど、みんなに助けられながら、私も楽しく生きている」と、一刻も早く伝えたい一心から、書ける範囲でまずやってみたいと意思が固まった時点で、ニッタンに「先生、自分の病気について発表してもいいですか?」と、ある日の放課後に聞いてみたところ、すぐに快諾されました。これはずいぶん時が経ってから知ったことですが、実際にはニッタンから母に「発表していいか」という内容の確認が取られていたようです。私は、入学当時から病気について説明できる事から、友人達からの質問などがある度にしていました。そして、全校生徒の前で話したいという気持ちは一度もありません。しかし、日々介助をして頂くのも担任も体育科の先生という状況下で、「発表をチャンスにしないともったいない」という思いが詰まっていました。この時に作成したレポートを書くにあたり、初めて二分脊椎症について書かれた手引きと向き合うことになりました。
まとめた内容は、私が経験してきた症状を中心に女性の立場で伝えられる事について書き上げました。そして、ニッタンが見守る中で発表当日を迎えました。普段は、にぎやかすぎるクラスメートがどの授業でも見たことがないほど静かになり、集中して聴いてくれました。終わった瞬間に湧き上がった感情は、聴いてくれたことへの感謝とこの発表をしたことの意味を深めたような思いでした。そして、目指せるだけこの仲間との卒業をしたいと、強く思うようになったのです。
このあとも、体調不良によるドタバタは付き物であったが2003年3月、先生方と仲間たちに支えられた4年間は、幸せな卒業という形を迎えさていただいきました。
卒業式の日、卒業生が入退場の際に使用された曲は共にSMAPの曲で「世界に一つだけの花」と「オレンジ」でした。この時には、「世界に一つだけの花」が健聴な耳で聞く最後になるとは思いもしませんでしたが、この曲は現在も私自身の心の支えであり、頭の中でその後ずっとメロディーが鳴り響くほどの大切な1曲となっています。
  • 2017.12.27 Wednesday
  • 16:06

「合言葉は『おまけの人生』」

「合言葉は『おまけの人生』」10《「音のある世界」から「音のない世界」へ》

2003年4月、通信制大学に入るも不向きな学習スタイルだとわかった事などから、前期をもって退学。
同年8月、 3ヶ月以上外出してなかったのにもかかわらず、結構暑くなったこともあり、父と汐留で遊んでいるうちに熱中症になってしまった。これとは因果関係はないものの、症状が落ち着いてから、聴覚異常を感じ、ドクターに訴えるも… 何も調べられることもなくその日は終了しました。
そして2004年2月、念願だった耳鼻科の初診の日を迎えました。この日にドクターからかけて頂いた言葉に、感動した事を今でも、鮮明に覚えています。

「私は、二分脊椎症について研究をしているけど、研究が足りなかったらゴメンね。」

それまで、多くのドクターに出会って来ましたが、このような強いメッセージを届けてくれた経験がありませんでした。
聴覚症状としては、「音のある世界」にいられたものの、雑音が多すぎて「音のない世界」への移住が相当進んでいました。そのため、病院の予約・キャンセルも、元々FAXも機能的に難しいという事を伝えた上で、メール対応可能と言っていただいた場合には、ありがたくお願いするようになっていました。
病院によって、対応して頂ける内容は異なります。整形外科の病院では、診察券に「私は耳が聞こえません。」と書かれたシールを貼ってもらって使用している。さらに、会計時に呼ばれている事にスムーズに気づけるように、手のひらサイズのバイブレーターを渡してもらえます。
このような対応をしてもらえる病院があると、小児科の病院で伝えた事があります。話を聞いて下さり、診察券のコピーまではして頂けました。しかし、その後の進展は残念ながらないままの現状。もう、何年も経つのですが…。
2006年10月 病名「 巨大水頭症の悪化による聴覚失認 または 皮質聾」という診断に至った。ABR検査では、脳と耳から指令が出ていて正常。まだ、診断の可能性を諦めきれずにいたので、自ら希望して撮影したMRIの結果を診て、

「聴覚神経が圧迫されているため、音声認識ができない状態である」事の説明を受けました。
診断前の一時期、耳かけ型補聴器を病院からの貸し出しという形で、使用していました。しかし、振動から得られる感覚を求めすぎるあまりに音量を、常に、最大にして使用していたが…

「これは、聴覚本来の機能も失う事になり、耳にとって負担が大きい」
というドクターからの話を聴いて、利用を中止しました。それ以降は、全く使ったことがありません。さらに、この日を迎えられるまでの間には、感音性難聴の可能性に触れられた事もあり、人工内耳の手術の話も出たことがありました。
ですが、MRI画像を見てドクターが、安堵の表情を浮かべながら…

「あの時、急いでオペをしなくて良かった。」

と話してくれた事が、今でも鮮明に脳裏に焼き付いています。
この診断を受けて、聴覚障害者としての証明と利用可能な福祉サービスをスムーズに受けるために、身体障害者手帳を更新しました。それまでの障害に加えて、「聴覚障害2級」が記載されています(手帳上では、聴力障害とされている)。私自身も手帳更新時に知った事だが、聴覚障害としては2級が最も重度となる。一般に、聴覚障害をほとんど有していると思われている「言語不明瞭」の部分がありません。むしろ、聴覚障害になってからの方が、相手に伝えたいと思う意思を強く持つことで、はっきりした発音となり、健聴の頃から知っている方にも、「今の方が聞きやすい」と言われるほどです。世間一般の考え方で見ると、障害が増える事はマイナスと捉えられる事が多くあります。確かに、障害が増えれば不自由さは多くなり、必要となる説明は長くなる一方となっています。
また、同じ二分脊椎症を有する方であっても、水頭症の有無によって、子どもの頃から目には見えない心の壁も感じてきたのも事実です。
具体的には、特に運動機能や学習面において、
「お宅は大変そうだけど、うちはその点に問題ないから」

と、はっきりと言われる事も幼い頃から良くあって、つらくなることもありました。症状が増えるにつれて、その溝は深まる一方で…同じ病名と診断された症者の中であっても、1つは、自分の身の周りの事が一通りできる運動機能的に私よりは軽度の当事者、もう1つは、自分と同程度の介助を必要とする症者といった感じに大きく2つに分かれている事を、受け止めるしかありませんでした。しかし、後に私より軽度な方々に様々な症状が発生し、慌てている姿を目にすると、先にいろいろと経験出来ていて良かったと思っています。
さらに、聴覚障害診断までの数年間、他のあらゆる症状をベテランに訴えても、診断が不可能な事の連続でした。
そのため、心因性と判断される事がとても多かったのです。その事が要因となり、心に大きな雪だるまが出来るほど、積もり積もったものとなっていくばかりでした。頭では、解らない事もあると理解しつつも、どうしても納得のいかない時をずっと過ごしていました。
そのような日々が長く続いていても、症状そのものとの付き合いは、尋常でない激しいものに襲われていない限り、楽しむ事は変わっていませんでした。
しかし、さすがに診断には絶望的な気持ちが膨れ上がって、次第に…


「もう、私が生きているうちに納得のいく診断は、されないのではないか」

と、心は諦めの境地に向いてしまっていました。

そして、「ここまで、調べ尽くしてくれた上での結果だから、受け入れよう」

とMRI診断の直前は、一つの覚悟をするかのような勢いで、自分に言い聞かせるようにしていました。

ところが、聴覚障害の診断を受けられたことで、他の症状についても諦めきれずに伝えながら待つ事ができれば、心因性診断が減少して…
いつか、解明へとつなげる事ができるかもしれないと、「希望の光」を見ることができたのです。
ドクターによれば、このケースの聴覚障害を正確に理解している耳鼻科医は、当時の時点で…世界で10人程度だと聴いて、良い出会いに恵まれた事に感謝しました。その一方で、たくさんの誤診が続いているであろう現実を想像したら、ゾッとせずには、いられませんでした。
幼い頃に、中耳炎や外耳道炎を繰り返していた影響からなのか、自然とある程度の読唇術が身についていた事がどこに行ってもほとんど困る事はなく、楽しく過ごしていました。実は、聴覚異常を本格的に感じるまで何か問題が発生すれば、開業医の耳鼻科をその都度、受診する程度でずっと聴覚症状には注目することが、そもそもありませんでした。そして、脳外科医が耳鼻科受診を勧めてくれたのは、1人の二分脊椎症者の方が聴覚障害を発症した事を知っていたからでした。しかし脳外科としては、問題にならない程度の小さなシャントトラブルの積み重ねが引き金となって、聴覚障害につながる症例については、ご存知ではなかったようでした。
2006年4月にシャントトラブルがCTで確認されて、脳外科診の翌日に入院して、その2日後に手術を受けました。
退院後の初めて耳鼻科診で、シャントの再建術によって聴力の回復の可能性があった事を聴きました。しかし、オペ以前の3年間CTを撮り損ねているうちに、シャントトラブルを起こして、聴覚神経を圧迫しすぎている事が要因となり、回復はしませんでした。
この経験から、私と母はシャントのチェックを目的としたCTの撮影が、耳鼻科の観点からも重要である事を、水頭症を有している方とそのご家族に伝え続けています。ですが依然として、水頭症と聴覚障害との関連性への関心や認知度などは、広められていない状況でなかなか変化を感じられないままとなっています。
2008年秋から半年間、 某大学オープンスクールで、英検対策授業を受講しました。 (ものすごく苦戦していたけど )
英語を中心に子どもの頃から母主導の下で色々と習い事はしていましたが、聞こえなくなってから本格的に学習するのは、これが初めてとなりました。
  • 2017.12.27 Wednesday
  • 16:04